杉原千畝

杉原千畝(1900年1月1日〜1986年7月31日)は日本の外交官で、幸子と結婚し、4人の息子がいました。三男の晴生は、1940 年 5 月にカウナスの P. マジリス診療所で生まれました。

1939年から1940年まで、彼はカウナスの日本副領事として勤務し、リトアニアがソ連占領下にあった1940年7月から8月にかけて日本の通過ビザを発給し、ポーランドから逃れてきた数千人の戦争難民(ほとんどがユダヤ人だった)を救いました。杉原のビザ発給リストには2139人の名前が含まれています。

ルーマニアの新聞により1944 年にブカレストで撮影された写真

1940年夏、在カウナス・オランダ名誉領事ヤン・ツヴァルテンディクとの協定外の協力により、日本からの通過ビザとカリブ海のオランダ植民地からの目的地ビザを持つ数千人の第二次世界大戦難民の救出が可能になりました。

杉原は1968年、当時東京のイスラエル大使館で外交官として働いていた、かつて杉原が救ったヨシュア・ニシュリさんによって最初に発見されました。この再会から、ユダヤ人の救世主としての杉原の物語が世の中に広まっていきました。 杉原は「日本のシンドラー」とも呼ばれています。

1984年、ユダヤ人をホロコーストから救った功績により、ヤド・ヴァシェムから諸国民の中の正義の称号を授与されました。

1940年の夏、カウナス。領事館の前に詰めかけた数百人もの難民を目の当たりにした杉原千畝は、日本政府に対し、日本通過ビザを大量に発給する権限があるかどうかを照会した。返答が遅れるなか、杉原は自らの決意で大量発給を開始する。その最中、外務省から次のような回答が届いた。

「査証発給の件につき、爾後(じご)目的地国の入国免許手続きを完了し、かつ本邦(日本)離去の手続きを完了したる者に限ることとし、例外を認むべからず。右(右記の件)、厳守ありたし。 外務省 田中」

杉原のこのような異例の行動は、上下関係を重んじる日本の伝統から逸脱していただけでなく、当時カウナスにいた他の外交官たちとも一線を画すものであった。スヴァルテンディク氏を除けば、他の外交官たちは難民問題に対して非協力的、あるいは極めて消極的な態度に終始していたからである。